Memory Alpha
登録
Advertisement

「私の若い頃は決して自慢のできるものじゃない…。だがそこを切りとったら…人生という名のタペストリー全体がバラバラにほどけてしまう。過去を含めて、今の自分があるんだ…そのことをQに教わったような気がするよ。」
ジャン=リュック・ピカード

 ジャン=リュック・ピカード(Jean-Luc Picard)は、24世紀後半の宇宙艦隊士官である。熱血漢のジェイムズ・T・カーク大佐とは異なり、常に冷静沈着な指揮官である。生粋の冒険家であり、考古学の知識は素人の域をはるかに超える。

 最初に指揮した宇宙艦USSスターゲイザーで、USSエンタープライズDUSSエンタープライズEと続く。これらの経歴で、24世紀における巨大な歴史の転機を目撃するだけでなく、それらの中で重要な役割を果たしてきている。彼は、27にも及ぶ連邦外の種族とのファースト・コンタクトに成功し、その中には、後に連邦最大の脅威となるボーグや、守銭奴のフェレンギも含まれている。また、Q連続体と幾度も接触し、数々の問題を起こされると同時に宇宙での新たな知識を獲得している。

パーソナル・ファイル[]

宇宙艦隊経歴[]

Jean Luc Picard personnel file

パーソナルデータ表示画面

宇宙艦隊認識番号: SP 937-215

宇宙艦隊アカデミー時代[]

 アカデミー時代のピカードは、本の虫だったカークとは対照的に、非常に血気盛んな性格をしていた。

 ピカード本人は、「利己的で野心家で、相当鍛え甲斐があった大馬鹿者」だと言っていた。それについてはビバリー・クラッシャー医師も否定していない。

艦隊入隊後[]

 この当時のピカードを象徴する出来事といえば、ノーシカンとの馬鹿な乱闘騒ぎで自身の心臓を失ったことである。ピカードはこのとき緊急手術で人工心臓を埋め込まれ、一命を取り留めた。

 ピカード自身はこの出来事を、記憶から抹消したい、なかったことにしたい過ちだと考えていた。しかし、後にに、「仮にその出来事を起こしていない人生」を見せられる機会があり、その際のピカードの階級は大佐どころか中尉のままであった。冒険や出世には程遠い人生を生きてきた、後悔に満ちたものであった。

 ピカードはこのことから、人生の失敗と思えることが、必ずしも人生を不幸にするものではないことを悟り、今度は自ら心臓を刺されに向かって行ったのである。

USSスターゲイザー勤務[]

 2333年、当時大尉ブリッジ士官だったピカードは、死亡した艦長の代理を務め、そのまま28歳の若さで艦長に就任した。これはカークの30歳より2歳若く、宇宙艦隊史上最年少であった。[1][2]

USSエンタープライズD勤務[]

2364年[]

 2364年に、宇宙艦隊の旗艦であり、最新鋭艦であるギャラクシー級USSエンタープライズD艦長へと抜擢される。

2366年[]

第一次ボーグ侵攻[]

 太陽系に侵攻してきたボーグ・キューブに接触した際、突如ブリッジに侵入したドローンに拉致され、連邦侵攻指揮官ロキュータスとしてボーグ同化されてしまう。その後の防衛戦ウォルフ359の戦いでは、40隻の連邦宇宙艦相手に宇宙艦隊艦長としての知識・経験が利用され39もの連邦宇宙艦の破壊に手を貸してしまう。ボーグは、これらを利用するためにピカードを完全に同化することはなかった。そのため、ライカー以下USSエンタープライズDのクルーたちによって救出されナノプローブは取り除かれた。この経験はピカードの心に大きな傷を残し、後々まで苦しめられる。


USSエンタープライズE勤務[]

2372年[]

 USSエンタープライズD損失のため、宇宙艦隊は最新鋭の巡洋戦艦ソヴェリン級の二番艦として建造されたUSSエンタープライズE艦長として、再びピカード大佐を起用した。

 二世代に渡るエンタープライズの指揮を執ることは、宇宙艦隊でも最も有能であり英雄でもあるジェイムズ・T・カーク大佐以来のことである。

2373年[]

第二次ボーグ侵攻[]

 2373年、同艦においての任務中、ボーグが太陽系内に侵攻したとの知らせを受け、任務続行の命令を無視し追撃にでる。このセクター001の戦いでは、傷ついたUSSディファイアント(NX-74205)のクルーを救出し、同化された経験をもとに臨時指揮官として弱点をついた攻撃でボーグ・キューブの破壊に成功している。

Jean-Luc Picard, 2364 この記事は書きかけだ。是非とも、この記事に加筆してみて欲しい。記事を書く際は、画面上部の「編集」をクリックするように。


付録[]

注釈[]

  1. ただし、新時間軸カークは25歳で艦長に就任している
  2. なお、奇妙な縁だが、ピカードがスターゲイザーの艦長になった年は、ジェイムズ・T・カークが生まれてからちょうど100年後だった
Advertisement